おいしいものは、食べてみないとわからない まずいものもおなじ
私は疲れていた。
大学3年生のいま、内定どころか留年しそうなのだ。
バイトをまじめにやりすぎたのだろうか。バイトで稼いだ金は貯まることなく、服と化粧品、それから遊びに費やされた。
居酒屋のバイトの給料なんてたかが知れている。
だから、親からの仕送りもすべてそれに消えた。
私はどうして、この大学に来たのだろう。
デザイナーになりたい、と私は両親に言った。
私は父親に反対されたけど、絵が好きだった母親は応援してくれた。
遊びすぎて留年しそうだなんて言えるだろうか。
大学の学費、なんて言葉にすれば簡単だけれど、いざ数字に、円になると、とても太刀打ちできない。
今の自分がどれだけ働いても返せない額だ。
言えない。
もう一年、…
言えるものか。
バイトの帰り、もう深夜3時を回っている。
店の閉店は深夜1時だけれど、片づけや掃除をやっていると、どうしてもこのぐらいの時間になる。
女の私がこんな遅くまで働いているのは、単に、バイト先から私のアパートまで自転車で歩いて帰れてしまうからだ。
そして、その自転車は、先ほど盗まれてしまったらしい。
ああ、疲れた。
明日は何時にどこのキャンパスだったか…
疲れと、進退のことで頭がいっぱいだ。
「あぶない!」
突然の大声に心臓ごと体がとびあがった。
とたん、真っ赤な明かりが見えた。
ああ、私は、これがなんだか知っている。
赤信号だ。
鼻先を、大型トラックがぶおん、と通っていった。
昔なら「ばっかやろう!」なんて言われたんだろうけど、今のトラック野郎は、引きそうになった相手にすら無関心なようだった。
「大丈夫ですか?」
私がまだ呆けていると、だれかが駆け寄ってきた。
不思議な匂いがした。石鹸の匂いと、動物の匂い、おいしそうな油の匂い。
その人物が顔をのぞき込んできたので、しっかりと目があう。
くしゃりとした黒髪、とろんとした瞼。若い。まだ、十代だろう。故郷の弟と同じぐらいだろうか。
黒い瞳は、明かりが少ないためにさらにくっきりと浮かび上がり、吸い込まれそうだと思った。
「あの…」
「あっ、はい」
返事すら忘れていた。
彼はゆるりと「よかった」と言って、また、ゆるりと笑った。
「……お酒とか飲んでいますか?」
いえ。
その否定すら遅れた。
……心配されている。
弟に心配されているようでバツが悪い。
彼はよく見ると、少し汚れた白い服を来ている。彼の後ろには、駐車している肉屋の車がある。
そういえば、近所のちょっと良い飲み屋は、地元の肉屋から肉を仕入れていると聞いたことがある。
私たちのようなチェーン店では、冷凍の外国産の肉しかやってこないので、なんとなくうらやましい、
とは違うけれど、格の違いがあるな、しょうがないけど、なんだかなあ、と複雑な気持ちになっていた。
だって、その飲み屋よりも、チェーン店の私たちの店のほうが人気があったのだ。
「いえ、きれいな人が歩いているなあ、って思ったら、
赤信号なのに歩いていくから、びっくりして…
その、自殺とかじゃないですよね?
本当に、お酒、飲んでないんですよね?」
ずいぶん心配されている。
そりゃそうかもしれない。こんな時間に女が一人、ふらふらと赤信号に突っ込んでいったら誰でも不安になる。
というよりも、突然綺麗と言われたことに、内容はおじさんくさいのに、言い方が自然で気づかなかった。
否定するタイミングを失ったまま、私は大丈夫だ大丈夫だと言って、その場を離れようとしてみたけれど、なんだかうまく行かなかった。
たぶん、離れがたかったのだろう、この青年から。
なぜだかは、わからない。
「送っていきましょうか?」
「えっ」
「あっ、すみません。おかしいですよね。危ないですよね…
でも、その、ちょっと心配で…
あの、怪しいものじゃないです。と言ってもわかりませんよね。
店、知ってます?2駅向こうの…」
「あ、駅から10分ぐらいのところ?」
コロッケのおいしい肉屋があって、前に一度だけ行ったことがあった。
評判通りコロッケはおいしいのだが、どうも駅から離れていて、それっきり行ったことはなかった。
その店の名前が、彼の車にでかでかと書かれている。
「よかったらお送りしますけど…」
「えーと…」
「注意事項があって、ぼく、今年免許をとったばかりなので、まだ初心者マークなんです」
「ええ?」
結局のところ、私は、お願いします、と言ってしまった。
実際、アパートまで歩いてはいけるけど、近いというわけじゃない。
それに、彼のズレたところや、まだ10代であること、素性がしっかりしてること、それから、どこか弟に似ていたから、というのもある。
「あ、ごめんなさい。あと一軒まわらないといけないんですけど、いいですか?3分ぐらいなので」
私はウン、と二つ返事をした。
次の店まで、彼に愚痴を沢山聞いてもらった。
彼は前を見ながら、ハンドルを切りながら、それでも相づちを打ち、ときどき笑い飛ばしてくれた。
人間の耳が横に付いていてくれてよかったと思う。
ときたま、信号の時には彼がこちらをじっと見ていてくれて、目があう。
なぜか、心臓が痛くなる。なんてまっすぐな視線だろう。
さっきの愚痴に嘘はないかと、問いかけられているような気がして、私はまた洗いざらい話してしまう。
店に近づいたとき、「冷やかされるのが面倒だから」と言われたので、私は快く体を低くし、彼が肉を卸し、店主との会話に耳をそばだてた。
「お待たせしました」
すぐに彼が乗り込んで、そう言う。車はゆっくりと発進した。
「どう行けばいいかな。さっきの道に戻ればいい?
えっと、家の前はさすがに嫌でしょう。近くまで行くから、適当に案内してくれれば」
車はゆったりと道を曲がる。わたしはまたポツポツと愚痴を織り交ぜながら、道案内をした。
目的の場所にはあっという間についた。
「じゃあ、これで」
「うん。すぐそこだろうけど、気をつけて」
私はドアを開けて降りようとした。ゆっくりと。
「ねえ」
「もう少し話したい?」
体をひねって、私は降りようとしていた。車のシートで汗ばんだ私の背中を、その言葉がそっとなぜた。
私は、その一言をずうっと待っていたんじゃないかと思った。
私は素直にドアを閉じたけど、どんな顔をして振り向けばいいかわからず、ずっと下を見ていた。
「あっ、変な意味じゃないですよ、えっと」
「わかってるよ」
相変わらず邪気がない。おかげで恥ずかしい空気もどこかへ行ってしまった。
場所を変えますか?と彼が言ったので、私は彼に任せた。
「……だよね」
「え?」
なんだろう。
うまく聞き取れなかった。
場所を変えたといっても、私のうちからは近い、誰も来ないような道に車を止めて、時間のたつのも忘れて喋っていた。
「だから、 」
「…ごめん、もう一回」
「?おかしいね。まあいいや、大した話じゃないから」
聞き取れなかった話が気になって、私はもう一回、とねだった。
私は、どこか恋人気取りだった。
「いいの?」
「え?」
「本当にいいの?」
「なにが?」
「言っても」
「うん。いいよ」
「じゃあ」
「……」
「 だよ」
彼の唇を見ていた。覗く歯と、舌先を見ていた。
瞳は初めて見たときと変わらない。黒い。黒くて、吸い込まれそうだ。
いや、吸い込まれた。
なにか、私の何かが今、吸い込まれた。
「そうだと思う?」
「ああ、
そうだとおもう。
わたしもそうだとおもう」
彼の瞳から、目を離せない。
そらすことができない。したくない。そらそうという考えがない。
なんだろう、すごく、安心する。なにも考えなくて、いいんだ。
「そう思うっていうのは?」
「かえりたい」
「どこに」
「わかんない。ぜんぶだと思う」
「ぜんぶ?」
「ぜんぶ」
「ぼくができる」
「できるの?」
「できるよ」
「してほしい」
「なにを?」
「食べてほしい」
「なにを食べればいい?」
「わたしを」
「きみを食べていいの?」
「うん。食べてほしい。そう、ぜんぶ。ぜんぶなの」
そうだ。
そうだったんだ。
食べてもらえばいいんだ。
この人に食べてもらって、全部食べてもらって、
それからもう一度生まれて、またやりなおせばいい。
今度は間違わない。もう、間違えない。
「安心して、痛くないよ」
「安心してる。怖くない。ちょっとぐらい痛くてもいい。
全部食べてもらえるんだよね」
「うん」
「ああ、ごめん、バイト終わった後だから、汗くさいかも」
「大丈夫だよ。ぼくがきちんと洗っておくから」
私は嬉しいのと、恥ずかしいのとで、困ったような笑顔を浮かべた。
彼は同じように笑ってくれた。
すごく嬉しい。これから食べてもらえる。
この世界に、愛されて大事にされ、食べてもらえる人間が何人いるだろう?
私は選ばれたんだ。
彼に体じゅうを愛され、彼の一部になる。
私の抜けガラが、だれかのいちぶになる。
私のからは、かえっていく。
うれしい。
よろこびしかない。
うれしい。
わたしのひとみには、かれの黒しかみえない。
PR
この記事にコメントする